Archive for the ‘海外旅行の穴場【世界遺産の旅】’ Category

空中都市 マチュピチュ世界遺産

金曜日, 12月 23rd, 2011

「マチュピチュ」を最初に知ったのは数年前。英会話スクールのカナダ人講師が一度訪ねてみたい場所として、マチュピチュの写真集を披露してくれた。
以来、この南米はアンデス山脈の頂に忽然と広がる「空中都市」マチュピチュが気になって仕方がない。世界遺産シリーズの第1回目にマチュピチュを取り上げてみたい。

世界遺産マチュピチュ(Historic Sanctuary of Machu Picchu )ペルーに属し、世界遺産分類では「複合 遺産」。世界遺産登録年 は 1997 年 である。

マチュピチュとは老いた峰の意だそうである。この空中都市は標高2400mの断崖絶壁上にあり、麓からは見ることができない。16世紀、スペイン人はインカ帝国を征服したのであるが、マチュピチュの存在には気がつかなかった。スペイン人から逃れるために、インカの人々が作った秘密都市だったのである。

20世紀の初頭1911年、アメリカの考古学者、ハイラム・ビンガム(Hiram Bingham III、1875年 – 1956年)によって発見され、世界に紹介されたマチュピチュは考古学界の最大の発見と賞賛されたのである。

ハイラム・ビンガムが持ち帰った400点以上の出土品と、174体の人骨、スペイン人による古文書から、マチュピチュは、15世紀の第9代インカ皇帝の築き上げた王直轄の空中都市であると推定されたのである。 インカは文字を持たなかったが、インカについて知る手がかりとして、クスコの近くのインディオ、ワマン・ポマという人物が1615年に認(したた)め、そしてスペイン国王に送ったとされる書簡がある。なんとそれはデンマークの王立図書館にあった。書簡には456枚の絵が描かれており、インカ文明の謎を解く鍵として注目されているのである。

マチュピチュの総面積は5平方km。住居跡の調査から、貴族をはじめ身分の異なる人々500人以上が暮らしていたことがほぼ判明している。彼等は、あの段々畑で農業にいそしみ、金属加工を行い、石造建築物を築造していったのである。当時、車輪というものを待たぬインカの人々が、いかにしておびただしい数のマチュピチュの建築物を作っていったか、その驚異の高度な文明の空中都市に思いを馳せる。

さてマチュピチュ発見者のハイラム・ビンガムは映画「インディ・ジョーンズ」のモデルである事も知られているのだが、オリエント急行が運営する豪華列車にもその名を残しているのである。
南米ペルーの二つの世界遺産、インカ帝国の古都「クスコ」と、空中都市「マチュピチュ」を3時間半で結ぶ列車が「ハイラム・ビンガム」である。列車にはクスコ五つ星ホテル「モナステリオ」のシェフが腕をふるい、食事をしながらの列車旅を楽しめるというわけだ。アマゾン河の源流域ウルバンバ川と並行し、アンデス山中を走行していく絶景続きの旅であるという。標高3000m以上の高所であるが故、列車内には酸素ボンベも常備されている。

世界遺産ヨセミテ国立公園とアワニーホテルを懐かしむ

金曜日, 12月 23rd, 2011

世界遺産ヨセミテ国立公園へ行ったのは、2001年の事です。サンフランシスコからのバスツアーでしたが、日本で予約をしておきました。サンフランシスコには日本語が出来る友人がいまして、あちらこちらへと案内してもらったのですが、ヨセミテ国立公園へは私達夫婦と義妹の3人でした。

ヨセミテ国立公園での宿泊はヨセミテロッジではなくアワニーホテルを選びました。。アワニーホテルは花崗岩と木が主体のホテルでベッドや調度品も木製でした。アワニーホテルの庭からはヨセミテ滝もハーフドームも見渡す事ができ、すばらしい位置に建てられています。

アワニーホテルは格調のあるホテルとの知識を得ていましたので、ディナーにはそれなりの服装で参りました。近くの席にはバスで見かけた、香港からの新婚カップルがいて、カタコトながら英語でお話しました。離れた席には日本人もいましたが。  アワニーホテルでの部屋は2階だったのですが、このホテルでは、ヨーロッパ式に1階はグランドフロアーで2階がファーストフロアーとなっているようです。
サンフランシスコ←→ヨセミテ国立公園のバスは往復とも運転手さんはおなじ方で73歳とおっしゃっていました。私は女性二人連れでしたので、彼に「貴殿の奥方はどちらか?」と尋ねられました。「今夜はどちらの番だったかな、、」ととぼけましたら、「日本人がうらやましい。。」といっていました。
ヨセミテのご案内があらぬほうへ行ってしまいそうですから、続きは本欄担当の珠洲元がお届けします。(植武)

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世界遺産ヨセミテ国立公園は

アメリカ合衆国・カリフォルニア州にあるシェラネバダ山脈の中部に位置し、世界遺産分類では「自然遺産 」。世界遺産登録年 は 1984 年 である。

マーセド川を含むヨセミテ渓谷を中心に広がる国立公園。

ヨセミテは花崗岩と森や湖とが一帯になった3083K㎡の広大な面積を持つ。
毎年400万人とも言われる観光客が、美しき大自然に魅了され続けている。

アメリカ大陸の持つ自然のスペクタクルには言葉を失ってしまうだろう。

ヨセミテヴァレーの中の氷河彫刻ハーフドームは標高2695m。今でも、この頂上を目指す人々が後を絶たない。
エルキャピタンの岩壁は高さ914m。花崗岩で形成された一枚岩は世界最大と言われる。
更に無数の滝が存在し、中でもヨセミテ滝は落差が728m。

ハーフドーム、エルキャピタン、ヨセミテ滝がヨセミテ国立公園のシンボルとされるが、その一つ一つの大きさは半端なものではない。

ヨセミテ国立公園を彩る多彩な植物や動物達。
樹齢3000年のジャイアント・セコイアは幹の直径が10mにも達する。
代表的な動物はクロクマ、リス、ミュールジカ、ピューマ。

オオカミやハイイログは絶滅してしまった。
しかし、哺乳類や鳥類、植物、ヨセミテ公園はサンクチュアリと呼ぶにふさわしい地である。

ヨセミテ国立公園を観光するには、サンフランシスコから車で3時間から4時間。
ロサンゼルスからは、車で6時間かかる。
東西南北の4ルートから選択ができるが、東のゲートは秋から春にかけて閉鎖される。

同じカリフォルニア州に位置する為に大都市からのアクセスも容易である。
しかし、ヨセミテ公園は標高3,000mの高地。
夏場でも夜はかなり冷え込むので、それなりの準備が必要である。

※28フィート(約8.4m)超える車は通行出来ない。

※2008年6月現在、ヨセミテ渓谷への出入りは土砂崩れの修理で一部遅延が発生している。事前確認が必要。(珠洲元)

ポルトガル・エヴォラその1【世界遺産の穴場を行く】

金曜日, 12月 23rd, 2011

エヴォラはユネスコの世界遺産に「エヴォラ歴史地区」の名で登録された歴史のある街である。この街には2泊した。リスボンのホテルを朝出発し、先ずはシントラへ向かった。途中、列車の故障がありかなり遅れてしまった。その日の夕刻までにはリスボンへ戻り、エヴォラ往きの最終バスに間に合わせねばならない。シントラへ行くのは諦めようかと思ったのだが、代替バスが運行されるという事で、強行することにした。シントラもまた、その美しい文化的景観がユネスコの世界遺産に登録されているのである。シントラについては、稿を改めて記すつもり。今回はエヴォラ。

リスボンへ戻り、アルコ・ド・セゴ・バスターミナルから2時間足らずでエヴォラのバスターミナルに到着。タクシーで宿泊地へ。2夜ともポザーダ・ドス・ロイオス(★★★★)。日本で予約をしておいた。ポサーダ・ドス・ロイオスのもともとは15世紀に建てられたロイオス修道院である。マヌエル様式の建物は中庭をめぐる回廊となっておりなかなか風情のある建物である。今回のポルトガル旅行の目的のひとつにはポザーダ巡りが入っている。かつてのスペイン旅行で数箇所のパラドールに宿泊し、その情緒と快適さに感心したものである。ポルトガル旅行の際にはポザーダと、そのとき以来決めていたのである。

エヴォラはポルトガル南東部、スペインと国境を接するアレンテージョ地方の中心地である。ローマ時代から栄え、ルネッサンス期には学問の府としてすでに大学もあった。1584年9月には、日本からの天正遣欧少年使節がリスボン滞在の後、7日間滞在した街でもある。彼等が滞在したイエズス会、エスピリト・サント学院は高校として現在なお使われているのである。
エヴォラはローマ時代、中世を経てそれから現代へと、それぞれの時代を生きてきた歴史的建造物がいたるところにある、そしてそれらを囲む城壁が街を覆っている。さながら街ぜんたいが歴史博物館なのだ。

エヴォラの街の中心はジラルド広場Praca doGiraldoである。エヴォラの街歩きにはこの広場を出発点とするとよい。この広場はいつ行っても、おやじ達があちこちに屯している。立ち話や、テーブルでカードに興じているだけなのだが。ポルトガルでは女達よりおやじ達の立ち話を頻繁に見かけるようだ。
広場から東へ向かって「10月5日通り」が伸びる。界隈にはカフェや土産品店、ホテルなどが並んでいる。「10月5日通り」の坂を上りきると、高台は歴史地区である。カテドラルとエヴォラ美術館が並んである。その北側にディアナ神殿がそしてロイオス修道院とロイオス教会へと続いている。そのさきにはカダヴァル公爵邸、東へ進むとエヴォラ大学がある。これらの建造物はすべてユネスコの世界遺産「エヴォラ歴史地区」32の物件リストに含まれているのである。

再びジラルド広場に戻り、北に進む道はRua Joao de Deus。この道を進み城壁を抜けると突然水道橋があらわれる。城壁の手前にはカルヴァリオ修道院がある。

ジラルド広場から南に向かう道はRua da Republica。500体もの人骨を有した人骨堂があるサン・フランシスコ教会はこの通り沿いにあり、その西側には市場がある。

さて三度のジラルド広場を抜けてディナーの予約をしてある、レストラン「フィアーリョ」Fialhoへと向かう。入り口のバルを抜けて案内されたのは地下の席。案内書によるとエヴォラでは指折りの名店だとある。ポルトガル料理についてはまた改めて触れてみたいのだが、ここの料理はオーソドックスなポルトガル料理であるように感じた。盛り付けも食材も意表をつくといったものではない。味付けはすばらしい。素材を大切にした味付けは日本人好みかもしれない。

エヴォラの夜も更けてきた。ジラルド広場を抜けるのも4度目である。異国の狭い路地を ほろ酔い気分で愉しみながら斗折蛇行。ポサーダ・ドス・ロイオスへと向かっているつもりだが、間違えてしまったかな。。と、突然ライトアップされたディアナ神殿が眼前に。2世紀末にローマ人によって造られたこの神殿は、月の女神ディアナに捧げられたものだという。それに相応しい幻想的なライトアップである。その後ろには我等が宿ポサーダ・ドス・ロイオスが待っていた。

エヴォラ・つづく(文・植武)

グラナダ「アルハンブラ宮殿」スペイン世界遺産の穴場を往く

金曜日, 12月 23rd, 2011

海外旅行の穴場シリーズ。
スペインの世界遺産「アルハンブラ宮殿」のご紹介。「アルハンブラ]は地元では「アランブラ」と発音していると思うのだが、今回はアルハンブラにしておきましょう。

私達は2台のレンタカーに分乗しグラナダついたのは午後1時過ぎであった。アルハンブラ宮殿、午後のオープンは2時からである。入場券を求める人たちの長い列を横目にレストランへと向かった。アルハンブラ宮殿の入場券は事前購入してあったので昼食をとる時間が持てたのだ。

スペインを旅してみると、イスラムとキリスト教の歴史を如実に感じる。歴史上数多あるイスラムとキリスト教徒の戦いは、ここイベリア半島も大きな舞台となって繰り返されてきたのである。
13世紀から15世紀末までイベリア半島南部に存在していたイスラーム王朝がナスル朝(1230-1492)であり、その首都がグラナダである。この王朝がスペイン王国に征服されたのは1492年であった。これをもってキリスト教勢力による「レコンキスタ」が完了した事となる。「レコンキスタ」とは国土回復運動あるいは、再征服運動と訳され、キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動である。

キリスト教勢力は8世紀の初頭よりイベリア半島を支配し続けてきたイスラムを追放したのであるが、ここグラナダのアルハンブラ宮殿はグラナダ王国滅亡後も破壊せずに残した。アルハンブラ宮殿の建設はナスル朝ララマール王が1238年に着手、以降21人の王達により増改築が施され続けてきた、華やかで豪華な宮殿であり、250年以上もキリスト教徒を退けてきた堅牢な城塞でもある。宮殿とはいえアルハンブラ宮殿の中には軍隊、厩舎、官庁、住宅、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えていたのである。

アルハンブラ宮殿はヘネラリーフェ、アルバイシンとともに「グラナダの世界遺産」としてるユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録(1984年)されている。(文・植武)

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アルハンブラ宮殿はスペイン・グラナダ市南東にそびえる壮麗な宮殿都市です。アルハンブラ宮殿は、イベリア半島での最後のムスリム政権・ナスル朝時代に建設された世界遺産です。

アルハンブラ宮殿のあるグラナダはアンダルシア地方、シエラネバダ山脈の麓に位置し、800年もの間、栄華を誇ったイスラム教国の異国情緒あふれる文化が今も色濃く残る町です。アルハンブラとは、アラビア語の「アル・ハムラー(赤いもの)」から来る言葉で、「赤い城」という意味です。

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この名称の由来については、城塞周辺の土地の土壌が赤いため、あるいは建築に使われた煉瓦の色であるとか、宮殿が赤い漆喰で覆われていたからなど色々と言われている。スペイン語表記ではAlhambraと綴り、「アランブラ」と発音する。ただし、アンダルシア方言では「アルハンブラ」とも発音する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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スペインの世界遺産アルハンブラ宮殿の王宮は、宮殿北側にあり、歴々の王21人生活をしていた場所です。宮殿の外部は謂わば質素にも見えるのですが 、王宮休の内部に入るとその豪華さに驚かされます。「閉ざされた楽園」の名に相応しく、各部屋がパティオ(中庭)を取り囲み、水と光と緑そしてきらびやかな装飾がふんだんに施されているのです。

「ライオンのパティオ」は最も有名なパティオです。回廊にはアラビア建築の最高峰といわれる大理石の細い列柱が124本にもおよび、パティオをとり囲んでいます。パティオの中央にはシエラネバダの嶺からの清水が噴水となって湧き出ています。この噴水の水盤は12頭のライオン彫刻によって支えられている構造となっています。このライオンのパティオには「諸王の間」「二姉妹の間」「アベンセラへスの間」などが配置されています。ここはハーレムであったのです。
 二姉妹の間の天井はアルハンブラ宮殿の中でも特筆すべき美しさを待った天井があります。八角形の天井にはモカラベという鍾乳石飾りが蜂の巣のごとく設えてあり、天窓よりこぼれる光によって宝石のように光り輝くのです。アベンセラへスの間の天井は細密な寄木細工によって構成されています。なんとその数8,017個の寄木からなるというのですから驚きです。

まだまだ「♪アルハンブラの思い出 Recuerdos de la Alhambra」はつきませんが、このあたりで、次の目的地へ向かう事としましょう。(文・滋子)